「話が優しくなったね」と半年ぶりに出した書き下ろしの新刊を片手に古い友の一人である風早に微笑まれ、思いもよらぬ一言に柊は僅かに目を瞠った。







   y our piece







 蛇口から流れた水がシンクへ落ちる音がして、ついで包丁が規則正しく何かを刻む音がした。ぐつぐつと何かが煮える音。電子レンジが回る音。食器棚を開ける音。そんな生活感に満ちた音が柊の耳に入り込んで溢れる。同時に鼻が辺りに漂う美味しそうな匂いを捉えた。と思うと、今度は瞼を人工的な光が刺激する。
 まるで起きろ起きろと身体が訴えているようだった。ひとつのことを知覚してしまうと、眠っていたその他の器官も目覚めてしまうらしい。
 柊はそれらに追い立てられるようにして渋々目を開けた。長い間、光を映さなかった瞳は白熱灯の明るさに驚いたように瞬きを繰り返す。眩しさに頭がくらくらした。

「ん・・・・・・」

 軽い眩暈が治まった後、柊はようやく現状を認識した。すぐそこにパタパタとスリッパを叩かせて、キッチンを動き回る忍人の姿が見える。
 紺色のエプロンを身に着けた忍人の背中をぼんやりと眺めながら、一体何時の間に来たのだろうと思った。鍵を渡しているから、何時来てもおかしくは無いのだけれど。来たことに、自分が気付かなかったということに驚いてしまう。今までなら例え眠っていたとしても、他人が勝手に家に入ってきたら絶対に目が覚めるはずだ。
 そんなことをつらつらと考えて、ハッと気付く。何時の間にか、柊の中で忍人が他人では無くなっていたことに。

「今更、ですかね」

 ぽつりと呟いて、苦笑する。付き合い始めてもうすぐ一年。この部屋の鍵を渡してから数えてももう半年以上は経つ。二人が出会ってからの年数に比べれば、十分の一にも満たない。けれど、密度だけで云えば、それはそれまでの時間よりもずっと濃い、ぎゅっと多くのものが詰まった時間だった。
 擦れ違って喧嘩して、疑心暗鬼に捕らわれた日々。でもその分、たくさん抱き合って、言葉を交わして、同じ時間を過ごした。二人の距離は縮まった、と思う。
 少なくとも柊の中で、今までの忍人との関係とは明らかに違う。誰かを心の内に住まわせることを、誰かが自分の中に踏み入ってくることを、柊は長い間拒絶し続けていた。何時も当たり障りの無い笑みで応対して、極力自分を見せないように。そうして築く見えない壁。そんな柊の胸の中へ、忍人は何の躊躇いも無く飛び込んできた。ぶつかってきた。
 羽張彦以来だった。体当たりで柊に接してくるような人間は。羽張彦はその天性の明るさで柊の築いた壁に気付かずにぽんと飛び越えてきたけれど、忍人は解っていて真正面から挑んできた。
 そんな忍人に知らない内に感化されてしまったのかも知れない。忍人は決して柊の中の弱さ、臆病さを肯定せず、変わることが恐ろしいものではないと教えてくれた。

「変わる、か」

 ふと先日会った時、風早が述べた新刊の感想が脳裏を過ぎった。優しくなったと風早は云った。同じようなことを雑誌の会談で同席した先輩作家にも、その時の雑誌の記者にも云われた。
 柊としては何も変わっていないつもりで、今までの自分の作風と特に違ったことに試みたという意識は無かった。けれど、周りにはそう読めるのだという。
 自分には解らないところで影響されているのだろうか。この部屋に忍人の存在があることに違和感を覚えなくなったことに、ついさっきまで気付けなかったように。

「そうなのかも知れませんね」

 目許を緩めて、ふっと笑う。食器棚に収まる色違いのマグカップ、洗面台の歯ブラシは二本並んで、クローゼットには柊のものよりも1サイズ小さいパジャマ。部屋のそこかしこに散らばる、何時からか当たり前となった忍人の存在。肩にかけられた柔らかな毛布も綺麗に片付けられた部屋も立ち込めるご飯の炊ける匂いも全部。
 一年前の忍人と再会する前の柊には無かったあたたかいもので。以前は疎ましいと思っていたそれを愛しいと感じる自分がいることに、柊は少し驚く。ああこんな風に。自分は、変化している。
 忙しなく働く忍人の紺色のエプロンがふわりと揺れる様を微笑ましげに見ていると、その影がキッチンを離れ、こちらへ近付いてきた。

「柊、夕飯出来るぞ起きろ・・・・・・って何だ、起きていたのか」
「ええ、ついさっき、ね」
「だったら早く起きて手伝え」

 膝を付いてテーブルに突っ伏したままの柊の顔を覗き込み、肩を揺すろうとする手を置いて、そこで忍人は柊が起きていることに気付いた。思わず眉を顰めて、手を離す忍人に柊は苦笑しつつ頷く。
 忍人は柊の返事にひとつ溜息を吐くと、ぶっきらぼうにそう云って、立ち上がろうとする。衝動的にその腕を掴んで引き止めたら、忍人は怪訝そうに柊を振り返った。

「何時も有難う、忍人」
「・・・・・・何だ、藪から棒に。気持ち悪いぞ」

 何となく口をついた言葉に忍人の目が大きく見開かれ、微かに頬を染めると、誤魔化すように咳払いをして、何かおかしなものを見るような視線を柊に向けた。
 忍人の反応に柊は微笑む。唐突な行動ではあったけれど、別に嘘を云った訳ではない。何となく云いたくなっただけなのだ。
 〆切明けに死んだように眠って目覚めた時、そこに当たり前のように人がいる。自分と日常を、時間を共有してくれる人がいる。自分を心から好きだと云ってくれる人がこうして傍にいてくれる。そんなささやかな日々がこんなにも大切なのだと気付くまで、多くの時がかかってしまったけれど。

「酷いですね、私は素直に感謝しているというのに」
「特に礼を云われるようなことはしていない。それより、料理が冷める。早く起きろ」
「はいはい。解りました」

 大袈裟に溜息を落として見せると、忍人は何気ないことのように無表情でそう云った。それに柊は僅かに目を瞠って、さりげなく差し出された忍人の手を取る。ペンだこと木刀だこがあちこちにある、冬の水仕事に荒れた手は決して綺麗なものでは無い。骨張った手をぎゅっと握ると、忍人が柊を立ち上がらせようと力を込めた。
 忍人の助けを借りる形でようやく身を起こした柊は手を解いてキッチンへと戻ろうとする忍人の背に小首を傾げて、質問を投げかける。

「・・・・・・ねえ忍人。忍人は私のこと、好きですか?」
「嫌いだったら一緒にいないだろう。お前はどうなんだ?」

 予想していた素っ気無い返事と寸分違わぬ回答。はっきりとした言葉にしてくれることは少ないけれど、それも忍人なりの感情の伝え方であることを柊はもう知っている。
 振り向いて窺うように柊を見る忍人の冬の夜空のような澄み切った双眸に柊は何時もの作り笑いでは無い、本来の笑い方で微笑みかける。

「勿論、愛してますよ」

 恥ずかしいことをあっさり云う奴めと唇を尖らせてくるりと背中を向けた忍人の耳が真っ赤に染まっているのに、柊はついくすくすと笑ってしまった。
 それが更に忍人の不興を買ったらしく、不機嫌そうに料理をダイニングテーブルに並べ始める忍人の機嫌を直そうと柊はグラスを出す為に食器棚を開けた。










 柊忍は半同棲してるのが凄い萌える。ちなみに忍人さんは料理の腕はそこそこで片付け上手ってか物をぽんぽん捨てちゃうタイプ。柊は料理は結構上手だけど一人だとあんまり作りたがらなくて、片付け下手で気をつけてないと部屋が全部本で埋まっちゃう人。
 殻に閉じ篭ってた柊を唯一覗き込めたのが羽張彦で、その殻を無理矢理抉じ開けたのが忍人さん。この現代パロディの柊忍はそんなイメージです。後、柊は愛するのも愛されるのも臆病な人、忍人さんは愛するのも愛されるのも不器用な人という感じ。