「何で、」

 思わず言葉が口をついて出て、慌てて噤んだ。那岐が気に入っている昼寝場所のひとつである堅庭の片隅。深まる秋に色づいた広葉樹が影を作るそこは那岐の特等席だ。
 前の場所は千尋に見つかってしまったけれど、ここは幸いにも(千尋が悪い訳ではないが彼女は自然と人を引き寄せるからバレてしまうと芋蔓式なのだ)まだ彼女にも気付かれていない。だから天鳥船の中でこの場所を知っているのは那岐だけ、のはずだった。それなのに。

「・・・・・・珍しい」

 心地好い小春日和のあたたかな太陽の光を浴びて、天下の虎狼将軍がすやすやと無防備に眠る様に那岐は翡翠色の瞳を丸くする。忍人がこの場所を知っていたこともそうだが、それよりもこんなところで彼が寝ているということに那岐は驚いてしまう。そして、忍人ほどの人間が那岐の気配に目を覚まさないことにも。
 そろりとなるべく気配を消して、忍人の隣へ腰を下ろす。サザキに追われていた那岐にここから立ち去るという選択肢は無かった。出て行って、この場所がバレるのも、変な企画に巻き込まれるのもどちらもごめんなのだ。それならば、ここで静かに昼寝をしているほうが余程有意義というものだ。
 正直に云うと、他人がいるというのは落ち着かないのだけれど、仕方が無い。サザキや布都彦では無いだけマシと思っておこう。
 足を投げ出して、背に当たる壁に体重を預ける。ふと隣を見遣ると忍人は未だ夢の中を漂っているようだった。片膝を立てて、そこに頬を押し付けるという不安定な体勢で眠っている。
 那岐のほうへ向けられている寝顔は思ったよりも幼かった。何時もは何よりも強い印象を放つ瞳が閉じられている所為か、整った面立ちは人形のようだ。無雑作に撫で付けられた黒髪がさらさらと秋風に吹かれて揺れる。こうしてみると恐れられるほどの存在には見えないな、とそんなことを思いながら、那岐もまた瞼を下ろす。
 遠く自分を呼ぶサザキの声を子守唄に那岐はとろとろとやってくる睡魔に身を委ねた。







    みのとなり







 半刻もせずに那岐の目が覚めたのはすぐ傍で奇妙な音が聞こえたからだった。凛とした不思議な音色は真っ直ぐに那岐の耳を打つ。同時に咳き込む声が聞こえた。
 直感的に普通のものではないと思った。何か強い力を感じる。
 伏せていた顔を上げると、音のほうへ顔を向ける。忍人が口許に手のひらを当てて、俯いていた。荒い息を何度も吐き出しては吸って、必死に呼吸を整えている。こめかみから汗が流れて、輪郭を伝って地面へ落ちた。濡れた頬が夕陽に照らされて、その白さが浮かび上がる。
 気配を辿るように視線を巡らせて、那岐はすぐに悟った。苦痛に耐えるように身体を丸める忍人の腰に佩かれたそれ。鈍く光って、音を発している二本の剣。
 ―――――― 初めてあの刀の力を見てからずっと、那岐はあれがまともなものではないと感じていた。この世のものではない、そう思えて仕方が無かった。
 けれど、まさか。こんな代物だとは、那岐とて知らなかった。いや、忍人は今まで巧みに隠し通していただろうから、もしかしたらずっと気付かないままだったかも知れない。
 しかし、現場に遭遇した那岐にはすぐに解ってしまった、この発作のような症状の原因があの不気味な双刀から放たれている妖気によるものだということが。
 那岐が起きたことに気付いたのか、忍人が面を上げた。潤んだ藍色の瞳が鋭い眼差しで那岐を射抜く。何時もの、忍人を忍人たらしめる強い意志を秘めた目。
 心の中まで見透かされたような気がして、一瞬、那岐は惑った。声をかけるべきかどうか。今更、この状態で無視など出来るはずも無い。だが、触れてもいいものか。忍人はきっと触れて欲しくないと思っているだろう。そういう性格だ。このまま目を閉じて、寝たふりをしていたほうがきっと忍人にとっては都合が良い。面倒事に関わらずに済む那岐としても、このまま流してしまったほうが楽だ。

「・・・・・・っ!」

 そう思っていたはずなのに、気付けば那岐は身体を起こして、忍人の背中を擦っていた。那岐の行動に忍人は僅かに驚いたように目を見開いて、それからゆるゆると伏せる。
 一際、大きな咳が忍人の白い咽喉から飛び出て、けほ、と咳き込む。那岐の手のひらが辿る彼の背中は想像していたよりもずっと薄っぺらかった。放っておくことも出来ず、だからといって積極的に関わるだけの勇気も気力も無く、那岐は何も云わずに忍人が落ち着くようにゆっくりと撓んだ背を撫でる。
 元から武人としては華奢なほうだったとはいえ、これで刀を振るうことが出来るのかと疑問に感じるほど、鍛えられているはずの忍人の身体は痩せていた。分厚い衣で覆われた身体。それと同じだけ、忍人の心だとか感情だとかそういうものも隠されているように那岐には思えた。

「は・・・ぁっ・・・・・・」

 大分、治まってきたのか、荒い呼吸を繰り返す。それでも左胸の辺りをぎゅっと皺が出来るほど握り締めている手は緩む気配は無かった。
 どれくらい時間が経ったのか。陽射しの傾き加減はほとんど変わっていないから、恐らく数分の出来事だったのだろう。ようやく忍人が顔を上げて、那岐を見た。額に滲む汗を服の袖で拭いながら、何を云うか迷っているのか、視線をあちこちに彷徨わせる。何事もきっぱりはっきり言葉にしてしまう忍人が、と那岐は意外に思った。

「すまない、」
「それは、何に対して?」
「面倒をかけた。それに・・・・・・これからも、君の手を、煩わせてしまうから」

 歯切れの悪い謝罪。那岐は忍人の背に当てたままだった手をぱたりと地面に落として、訊ねた。返ってくる言葉によって、態度を変えるつもりだった。
 だが、投げかけられた科白が余りにも予想通りだったから、那岐は思わず溜息を吐いた。解っていて云っているのなら、一番性質が悪い。忍人はこんな性格だっただろうかと首を捻りたくなる。

「そうだね。どうせ、千尋には黙ってろって云うんでしょ」
「ああ。・・・・・・二ノ姫には、云わないで欲しい」

 溜息混じりに頷けば、忍人は那岐の目をじっと見つめて、告げた。その目の奥にある感情が何なのか、那岐には読み取れない。彼が千尋に抱く感情は何なのか、自分の身体に今の状況に思うことは何なのか。ただ千尋には知られたくないという気持ちだけが伝わった。
 千尋が知ったら、きっと忍人を心配して心悩ませるに違いない。戦で怪我した兵を見る度にその空色の瞳を曇らせる千尋が忍人が自分を削りながら戦っていることを知ったなら。彼女はその澄んだ空のような色の目を涙で濡らすのだろう。それを忍人が望まないだろうことは那岐にも解る。那岐もまた、同じ気持ちだった。
 幼なじみのような妹のような、自分の片割れのようにさえ感じる少女が泣くことは那岐にとって自分のことのように苦しいことだ。彼女が悲しまない為なら何でも出来ると思えるくらいに。

「大丈夫。何も云わないから安心していいよ」
「そうか」

 忍人に云われなくても、千尋には隠しておくつもりだった那岐はあっさりと首を縦に振って、投げ遣りに云い放った。面倒臭いことこの上ないが、千尋が泣くほうがもっと面倒臭いと那岐は思っている。忍人は那岐の返事に安心したようにふっと口許を笑みの形に歪め、眦を緩ませた。

「ただし、」
「何だ?」
「千尋を泣かせないでよね」

 安堵の吐息を漏らす忍人に釘を刺すように言葉を重ねる。真っ直ぐに藍色の瞳を見つめれば、忍人は気を引き締めたようにきゅっと唇を引き結んだ。
 これだけは云っておかねばならないことだった。こうして黙っていることは構わない。ただ、それによって千尋がずっと後で悲しむことがあるのならば。何か決意してしまっているのだろう忍人にこんなことを云ったとしても、何の抑止力にもならないことを那岐は薄々悟ってはいたけれど、黙っておくよりもマシだとも思った。

「努力する」

 短くそう答える忍人の目が揺るぎ無い光を持っていたから、那岐は知らず知らず溜息を吐いていた。何を云っても聞かないのだろう。きっと千尋が云っても。そんな確信。
 何だか一気に疲れが襲ってきたようで、全てが面倒臭くなって、やっぱり関わらなければ良かった、なんて今更な後悔をした。
 隣で忍人は発作で疲労した身体を壁にもたせかけて、ぼうっと空を見ている。会話は終わった、そんな風で。つられるように那岐も空を見た。太陽が西へ動いて、薄っすらと橙色を帯びてきた空は日暮れの訪れを告げている。秋の日が落ちるのは早い。そろそろ上に戻らないとヤバイかな、とそんなことを考えていると、忍人が空に視線を投げたまま、ぽつりと独り言のように呟いた。

「君は、何も聞かないんだな」
「聞いて欲しい訳?」
「いや、そういう訳では無いが」

 窺うように訊ねれば、あっさりとした否定。聞くも何も全部解ってしまっている。何か忠告をしないのかという意味なら、忍人と接点の少ない那岐には云う言葉は見当たらない。仲間といえど、今まで千尋という存在を通じてのみ、お互いを認識していたような自分達だ。忍人に抱く那岐の感情なんて微々たるものに過ぎない。
 大体、云っても無駄だ。どうせ何を云っても、聞き入れる耳など持っていないのに。だから、忍人がそう聞くのは卑怯なような気がした。
 不機嫌そうにむっつりと黙り込んだ那岐を気にも留めずに忍人はゆっくりと目を伏せた。穏やかな呼吸が聞こえる。また寝るつもりなのか、と訝しむ那岐に忍人は囁くように擦れた声で云った。それに那岐は思わず目を見開いて、忍人の顔を凝視してしまう。

「君の隣は居心地がいいな」

 それは那岐が何も問わずに不干渉の立場を取るからなのだろうが、その声が余りにも柔らかくて優しい、普段の忍人からは想像がつかない声だったものだから、那岐の心臓は不意打ちでとくんと跳ねた。
 自分でも理解不能だった。何でこんな気持ちになるのか。鼓動がうるさくて、静まれと那岐は心の中で叫ぶ。
 見ていることが出来なくて目を逸らした那岐の肩に忍人の傾いた頭が寄せられる。もう眠ってしまったのだろうあどけない表情。青みを帯びた黒髪が揺れて、那岐の首筋を擽る。
 普段は傷付いた獣みたいに警戒心の塊だというのに、どうして。そう親しくも無い那岐の前でこうまで無防備になれるのか。那岐には解らない。ただ晒された穏やかな寝顔にさっきの苦痛に歪められた表情が被って、どうしようもなく胸が痛くなる。確かな喪失の足音が那岐の耳に響いた。

「何だ、これ」

 自分で自分が解らなくなりながら、那岐は投げ遣りに両足を投げ出して、眠る体勢に入った。面倒事は後に追いやって、今は眠ってしまうことにする。
 結論なんて出さなくてもいい。むしろ、出さないほうがいい。そんな予感がした。この感情には名前をつけちゃいけない。本当は、気付いてもいけなかった。失うと、解っているのに。
 ぎゅっと目を瞑ってこの決して長くはない時間で起きた様々なことを頭の片隅へ押し込めながら、那岐はやっぱりあそこで寝たふりしておけば良かったと溜息を吐いた。










 忍人さんに「君の隣は居心地がいいな」と云わせたかっただけ。那岐と忍人さんはこうお互いに深く触れすぎない近すぎず遠すぎずな距離感だと萌える。途中の千尋の件でこれは本当に那忍になるのか真剣に悩んだけど、二人は千尋を通じてお互いを認識している状態から少しずつ直接相手を見るようになればいいんじゃないかな。