えたい気持ち







「何でそういう大事なこと教えてくれなかったんですか!?」

 忍人と付き合い始めて一ヶ月余り。忍人のバイトが無く、また千尋が夕食当番でも無い日、学校帰りに駅前で待ち合わせをして会うというのが二人の中の暗黙の了解となっている。
 それから何処へ行くのかは気分次第なのだが、ゲームセンターやファーストフード店などにまったく興味を示さないどころか嫌悪を抱いている忍人と過ごすのだから、大体行くところが固定されてくるのは仕方の無いところだろう。デートのマンネリ化を憂う千尋としてはもう少しバリエーションを増やしたいところなのだけれど、忍人はそういうことに欠片も頓着しない人だから、千尋としても考え甲斐が無い。
 以前、意見を聞いてみた時に君と一緒なら何処でもいい、と真顔で云われ、それ以来、千尋は特別な日や休日に遠くへ出かける時以外、何時も通りでいいじゃないと開き直ることにした。
 ということで、今日も定番のデートコースを辿って、クリスマスムードで浮かれた街並みをうろついてから、少し腰を落ち着けて、コーヒーを飲んでいた。
 そんな矢先だった。店中に響き渡るほど大きな声を出して、千尋が立ち上がったのは。

「千尋、とりあえず落ち着け」
「・・・・・・すみません」

 千尋の反応に藍色の瞳を丸く見開いた忍人は背中に突き刺さるような視線を感じて、一先ず千尋に椅子へ座るように促す。意図せず衆目の視線を集めてしまった千尋は俯いて、大人しく忍人の云うことを聞いた。しかし、小さく息を吐き出すと再びキッと顔を上げ、忍人を睨み付ける。

「どうして教えてくれなかったんですか。凄く大事なことなのに」
「別にそう気にするほどのことでもないだろう。21にもなって、歳をひとつ取るくらい大騒ぎするようなことでもあるまい」
「気にします! 少なくとも私は! 恋人の誕生日も知らないなんて、しかもそれが今日だなんて。・・・・・・私、彼女失格じゃないですか」

 問い詰めるように話す千尋に忍人は何故千尋が怒っているのか解らないとでも云いたげな顔をしている。本当に女心とかそういうものに鈍感な人だと千尋は改めて思った。
 経過としてはこうである。つい先程、忍人の携帯にメールが届いた。聞けば相手は同じゼミの友人だという。それだけなら良いのだが、そのメールが誕生日のお祝いメールだった為に千尋の心は驚きと同時に苛立ってしまった。
 可愛らしいメールの送り手の名前は明らかに女性。忍人は何でもないように振舞っているが、千尋としては内心穏やかでないのは当然のことだろう。何よりも自分は知らないのに彼女は知っているということが哀しかった。
 思えば、自分は忍人のことを何も知らないのではないか。そんな不安が咽喉元まで込みあがってくる。そういえば、千尋のことも忍人は何も聞いてこない。恋人同士ならば、もっと興味を持って知りたいと思ってもいいのではないだろうか。忍人がそんなものを気にする人間ではないと解っているが、それでもそう感じてしまう。

「君にとって誕生日がそんなに重要なことだとは知らなかった。すまない」
「もう! 忍人さんには一生解んないです!」

 泣きそうに表情を歪めて落ち込む千尋に忍人は素直に自分の非を認めて謝った。忍人としては、千尋に泣かれるのが一番辛いことなのだ。千尋の涙に忍人は弱い。
 けれど、暗に自分にとっては重要ではないと云われた千尋は余計に胸が苦しくなった。忍人にとっては千尋の誕生日もきっとどうでもいいことなのだろう。まだ付き合って間もない頃、誕生日や血液型、身長に趣味などを訊ねて、そんなことを聞いてどうするんだと怪訝そうに眉を顰められたことを思い出す。
 忍人との間にどうしようもない隔たりを感じて、千尋は涙に瞳を潤ませた。溢れそうになる滴を必死で抑えて、立ち上がる。
 持つものも持たずに捨て台詞だけを置いて、店の入り口へと走った。背後で忍人が慌てて席を立つのが解ったが、振り返ると涙が零れそうだったから、真っ直ぐに前だけを見て駆ける。
 初冬の早い夕暮れに辺りはもう大分、暗くなっていた。師走の忙しない人々の合い間を縫って、千尋は当て所なく彷徨う。駅前の通りはクリスマスのイルミネーションがちかちかと鮮やかな光を放って、華やかだ。
 だんだんスピードが落ちて、ゆっくりと人込みに紛れるように歩く千尋のブレザーのポケットの中で携帯電話が鳴り響く。最近、流行りのラブソング。冬の恋人達を歌ったそれは今の千尋には切ないだけで。サブディスプレイを覗き込むとそこに映るのは喧嘩別れした恋人の名前。

「忍人さん・・・・・・」

 携帯を開いて、画面に表示された名前と番号を見つめる。通話ボタンに親指を押し当てたまま、押す勇気が持てずに立ち尽くす。その内に、ふつりと音楽が途絶えた。
 携帯電話というものが忍人は苦手で、番号やアドレスを交換した後も忍人からは事務的な内容以外、ほとんど連絡をしてこなかった。アドレス帳に並ぶ名前も少なくて、葦原という苗字の為に開くと一番最初に自分の名前が出るのが小さなことだけれど、千尋には嬉しかったのを覚えている。だからこそ、さっきのメールはショックだった。
 考えてみれば、この一月。千尋は幸せの絶頂にあったと同時に少し寂しかった。
 普通の女子高生らしく、彼氏という響きにときめいていた千尋にとって、初めての恋人である忍人との日々は楽しいけれど、理想とはかけ離れたもので。メールだってもっと他愛ないことを話したかったし、忍人と二人でプリクラだって撮りたかった。
 学校帰りにこうやって会うことも千尋が云い出したことで、それが無ければ、きっと会う時間はもっと少なかっただろう。週末に約束を取り付けるのは何時も千尋で、数日後に控えたクリスマスもバイトを入れるという忍人を千尋が一生懸命に訴え、何とか引き止めて会う約束をしたのだ。
 千尋ばかりがはしゃいで喜んでいるようで、温度差を感じて寂しい。
 何事もはっきりと言葉にする忍人が意外と照れ屋だということを千尋は知っているから、ずっと我慢してきたけれど、付き合う時にお互いに想いを伝えて以来、好きだとか愛してるとか明確な言葉を忍人がくれたことは無かったように思う。
 態度だって素っ気無いことが多くて、何かしたいと云っても、好きにしたらいいと返すだけ。そんな時、何だか自分だけが空回りしているようで辛かった。
 だから何時もなら、おめでとうと素直に祝えて、これからプレゼントを買いに行こうとかそういう風に流してしまえたはずのことにあんなにも憤りを感じてしまったのだろう。
 この一ヶ月で積み重なって千尋の心を埋めていた、たくさんの小さな感情が一気に溢れてしまったのだ。

「多くを、望みすぎてるのかな・・・・・・」

 携帯が鳴る。不在着信と新着メールが増えていく。それだけ心配してくれているのだろう。荷物を全て置いて店から飛び出た千尋をきっと忍人は必死で探し回っているに違いない。
 忍人は、優しい。素っ気無くても、ちゃんと千尋の願い事を叶えてくれるし、約束だって違えたことは一度も無い。
 そんな忍人の愛情を疑うことを千尋はしたくなかった。けれど、こうも思ってしまう。自分が忍人を求めているだけ、忍人も自分を求めてくれているのだろうかと。

「私、どんどん我儘になってる」

 心に浮かぶ疑問に思わず唇の端から苦い笑みが零れた。片想いだと思い込んでいた頃、好きだと伝えた時、自分はもっと謙虚だったはずだ。
 ただ傍にいられれば良くて、同じ空気を吸っている、それだけで満足だった。メールだってたった一通の十文字にも満たない文章が愛しくて仕方が無かった。与えられないと解っていたから、ささやかな優しさが嬉しかった。
 それなのに、何時の間にこんなに貪欲になったのだろう。手を繋いでくれないのが寂しくて、記念日を覚えていてくれないのが不満で、自分が知らないことを他人が知っていることが嫌で。恋人という甘美な響きに酔って、もっともっとと我儘になっていたのかも知れない。

「解ってたのにな、最初から。忍人さんがそういうことに興味無いって」

 何時の間にか大通りを抜けて、人気の無い住宅街を歩いていた千尋の頬を詰めたい北風が切るように撫でる。襟元から冷気がするりと入り込み、千尋の身体を凍えさせた。
 そこでようやく店にマフラーを置いてきてしまったことに気付く。道理で寒いはずだ。けれど、置いてきて良かったかも知れないと思った。
 買ってから毎日、学校へ巻いていくマフラーは一週間ほど前、二人で一緒に選んだものだったから。
 服装なんて動き易ければ何でもいいと公言する忍人は千尋がファッションにかける情熱が理解できないらしい。それでも何時も何も云わずに買い物に付き合ってくれた。二本のマフラーを前にどちらがいいか、うんうん唸って悩む千尋に忍人が似合っていると云ってくれたその色は柔らかな朱色。
 その時のはにかんだような笑い方を千尋は今でも鮮明に思い出せる。買ったばかりのそれを千尋の首に巻いてくれた時の指先の温度も。擦れたように名前を呼ぶ声も全部。

「千尋」
「忍人さんっ?」

 優しく鼓膜に馴染む声に千尋は弾かれたように振り返った。信じられないものでも見るように、すぐ後ろで膝に手をついて深呼吸を繰り返す忍人を凝視した。
 探し当ててくれるとは思っていなかった。がむしゃらに走って、行く宛も無く歩き回って、あの店から大分、遠くへ来てしまっていたから。まさか、忍人が見つけてくれるなんて。

「探したぞ。幾ら携帯を鳴らしても出ないから、心配した」
「・・・・・・ごめんなさい」

 街中を駆けずり回ったのだろう、忍人は荒い息を吐いた。剣道で培った体力があるはずの忍人がこんなに息を切らすまで走って、探してくれた。
 それだけでもう、千尋には十分だった。
 忍人が顔を上げるのを待って、千尋は謝罪の言葉を口にする。忍人が沈んだ千尋の声に表情を曇らせて、ふっと白い息を漏らした。

「いや、・・・・・・俺も悪かった。君に連絡がつかないから、風早に電話したらこっ酷く怒られたんだ」
「風早に?」
「ああ。千尋の気持ちもちゃんと考えてあげてください、と」

 思いもよらない人物の名前が出てきて、千尋は間を置かずに問い返す。それに忍人は苦笑いを浮かべた。
 二人が恋仲になったことは何時の間にか皆にあっさりと知られてしまっていたから、千尋が失踪した後に保護者である風早に連絡するのは当たり前かも知れない。けれど、忍人が風早に相談するとは思わなかった。目を丸くする千尋に忍人は瞳を細めて、自嘲するように唇を歪めて話し出した。

「だが、正直、俺には君の気持ちは解らない。君が何がしたいのか俺に何を求めているのかもさっぱりだ。今日のことも俺には君が何故怒っているのか解らない。だから、教えて欲しい。君が何を思っているのか。君の素直な気持ちを俺に教えてくれないか」
「忍人さん・・・・・・」

 真っ直ぐな眼差しを向けられて、千尋はゆっくりと瞼を伏せた。胸が苦しかった。こんなにも忍人は自分のことを考えてくれている。理解しようとしてくれている。
 何か不満があっても、千尋は溜め込んできた。付き合えていることが幸せなのだからとなるべく忍人に合わせるようにと努力してきた。
 それが、間違いだったのかも知れない。二人が尊重しあってこそ、二人でいる意味がある。本当に望むなら、素直に話せば良かった。言葉を尽くして、気持ちを伝えれば良かった。
 忍人が女心に疎い、不器用な人間だということを千尋は嫌というほど知っていたのに。
 確かな言葉が欲しい。態度で示して欲しい。もっと忍人のことが知りたい。誕生日とかクリスマスとかイベント事を一緒に楽しみたい。止め処なく欲求は溢れ出てくる。
 そして何よりも忍人から求めて欲しい。今日、いなくなった自分を必死で探してくれたように、もっともっと自分を求めて欲しい。自分だけではなく、忍人も自分を必要してくれているのだと、実感させて欲しい。

「・・・・・・っ」

 俯いて、ぎゅっと目を瞑って、泣きそうになるのを堪えた。そんな千尋を忍人は静かに見守っている。ぐっと唇を噛んで、決意を固めてから、顔を上げた。忍人の顔を真っ直ぐに見る。
 云いたいことがたくさんありすぎて、何から話せば良いのか解らない。それでもずっと抱えてきた想いを忍人に伝えるには今しかない。

「寂しかったんです、ずっと。私だけが空回ってるみたいで、私だけが忍人さんのこと好きみたいで。本当はデートも忍人さんの好きなとことか連れて行って欲しかったし、普通の恋人みたいに手繋いで歩いたりとか、色んなことしてみたかった。忍人さんは嫌うだろうけど、マックでだらだらとお喋りしたりとかカラオケ行ったりとかプリクラ撮ったりとかもしたかった。メールももっといっぱいしたいし、クリスマスや誕生日みたいな大きなイベントは一緒に過ごしたい。恋人らしいことがしたいんです。後、もっともっと忍人さんのこと知りたいし、私のことも知って欲しい。好きって云って欲しい。抱き締めて欲しい。我儘かも知れないけど、形にして欲しいんです」

 しばらく悩んだのが嘘みたいに、一度口を開けばするすると言葉は出てきた。込み上がってくる感情をそのままに吐き出す。忍人はそれを黙って聞いていた。
 関を切ったように忍人と離れている間、考えていたことが次から次へと形になって、唇から零れ落ちた。最後はきっと涙声になっていたと思う。それはずっとずっと思っていたことで、忍人に訴えたかったこと。だけど、云ってしまえば、忍人に嫌われてしまうかも知れないと一ヶ月、我慢していたこと。
 全てを吐き出して、千尋はすっきりとした気持ちで忍人の顔を見つめた。話している内に色んなことが吹っ切れてしまったようだった。

「・・・・・・そうか。俺は君にずっと寂しい思いをさせていたんだな」

 忍人が目を伏せて、ぼそりと呟いた。自責の念に満ちたその声にそうじゃないと千尋は唇を開いた。云ったって無駄だと端から諦めていた千尋も悪い。これはお互いに気持ちを伝えようとしなかったことが原因なのだから。しかし千尋の抗議は忍人自身に阻まれることになった。
 ぎゅっと寒風に凍えた身体が忍人の走った所為で熱の篭った腕に包まれる。不意打ちの温かい感触に涙が出そうになる。久しぶりのような気がした。実際、一ヶ月ぶりだ。告白したあの瞬間、泣き出した千尋を宥めるように抱き締めてくれた、あの時から忍人の温もりに千尋は触れていない。
 手を繋ぐこともなかった、たまに偶然触れる指先が二人の唯一の触れ合いだった。押し付けられるままに忍人のコートを掴み、肩口へ頬を摺り寄せる。

「俺は柊とか羽張彦みたいにこういうことに慣れていない。こんなに大切に思うようになったのも君が初めてだから、どうしていいか解らなかった。君とこうして恋人になっても、何を変えていけばいいのか、どう接したらいいのかずっと戸惑っていたんだ。恋愛に疎い自覚はある。だからおかしなことをして、君に嫌われるのが怖かった。そう考えると自然と今まで通りの接し方を選んでいた。それが君を悲しませていたのなら、すまないと思う」

 頭上から降ってくる擦れた声は忍人の真摯な感情を千尋に教えてくれる。常に言葉少なで決して語彙が豊富な訳ではない、実直な性格の現れた言葉はゆっくりと染み込んで、千尋の心を温かくした。一緒に思わず唇が綻んで、笑ってしまいそうになる。
 本当に馬鹿みたいだ。二人して同じように、初めてで手探りだった。それだけのことだったのに。二人して似た者同士で恋愛初心者で相手に嫌われるのが怖くて伝えられなくて。
 怖々とぎこちなく背中に回された腕はどれほど力を込めていいのか未だ躊躇っているようだった。他人に触れることに慣れていない不器用な手は抱き締めることにも臆病で。
 でもそれは千尋も一緒で。好きな人に抱き締めて貰うというただそれだけのことがこんなにも胸が苦しくなるくらい、嬉しいことだなんてきっと今までの千尋は知らなかった。
 お互いに知らないことばかりで、初めてばかりで、それでも相手の初めてが自分であることがとても嬉しい。この腕が抱き締めるのはきっと千尋が初めてだから。

「千尋?」
「忍人さん、好き、大好き」
「・・・・・・ああ俺も。君が好きだ」

 突然笑い出した千尋に忍人は訝しげに眉を寄せて、千尋の名前を呼ぶ。忍人の背に回した腕に力を込めて、千尋は肩口に埋めた顔をゆっくりと上げた。嬉し泣きで眦に涙が滲んで、泣きそうに歪む表情を必死に笑顔へと作り変えて、心を満たすありったけの気持ちを形にする。飾らない言葉は忍人の胸に真っ直ぐに届いた。
 一瞬、驚いたように目を瞠って、忍人はふわりと微笑む。普段の忍人からは想像出来ない、柔らかくて優しい表情。千尋にだけ見せてくれる慈しみに満ちた顔。
 少し頬に朱色を刷きながら、口にした科白は千尋がずっと待ち望んでいたもの。触れ合った身体と身体から早鐘を打つお互いの鼓動が伝わる。それが恥ずかしくて、でも嬉しくて。
 千尋は笑った。千尋の顔を覗き込んで、忍人もまた笑う。微笑み合う二人の間には北風でも吹き飛ばせない、暖かな空気があった。
 そんなまるでお互いしか視界に入っていないような二人を無粋にも引き離したのは、忍人の携帯が鳴る音。

「誰だったんですか?」

 メールの着信を教える素っ気無いアラーム音。初期設定のままほとんど弄っていない忍人の携帯は着信音もそのままだ。
 名残惜しげに千尋を抱き締めていた腕を外して、コートのポケットから携帯を取り出して開く。良い雰囲気だったところを邪魔されて、微かに忍人の眉間には皺が寄っている。そんな些細な表情の変化が楽しい。
 けれど、メールを読むにつれ、どんどんその皺が深くなるのに、さすがの千尋も少し心配になって、おずおずと問いかけた。

「風早からだ。『千尋を見つけたら、今晩は家で忍人の誕生パーティーしますから、真っ直ぐこっちへ来てください』だそうだ」
「そういえば風早と柊が何か企んでるみたいだったけど・・・・・・、こういうことだったんですね」
「まったく・・・・・・。勝手に何をやってるんだか」

 溜息を吐きながら、メールを読み上げる忍人。内容に思い当たるところのあった千尋は苦笑いを浮かべた。
 数日前、風早がこそこそと柊と電話しているのを千尋は目撃していたのだ。まさか、忍人の誕生日パーティーの段取りをしているとは思わなかったが。
 額に手を当てて、呆れ返ったという風に嘆息する忍人に千尋は微かに笑って云う。

「二人とも忍人さんのこと、好きなんですよ」
「何だそれは」

 風早も柊もきっと皆が。家に帰ったら、集っているのだろう皆の笑顔を思い浮かべる千尋に忍人は不思議そうな顔をした。自分の感情にも他人の感情にも鈍い部分のある忍人は自分を見つめる柊や風早の眼差しが優しいことにもきっと気付いていないのだろう。

「しょうがない。今日は風早に頭が上がらないからな」

 諦めたように千尋から離れた忍人は店に置いてきたままだった学生鞄を手渡して、コートを着せ掛けてくれた。コートに袖を通すと次にマフラーを首にかけられる。
 冷たくなった身体に暖かな感触が心地好い。ふいに首筋に触れる忍人の冷えた指先が擽ったくて、千尋は身を竦めて、くすくすと笑い声を上げた。つられるように忍人も唇を綻ばせる。

「あったかい」
「当たり前だ。こんなに寒いのにコートも着ずに出て行ってしまうとは。風邪を引いても知らないぞ」
「ごめんなさい。・・・・・・でも、風邪引いたら、看病してくれるんでしょう?」
「全く君は・・・・・・。反省しろと云っても無駄なのだろうな」

 ふと漏らした言葉に忍人が眉を顰める。今までの柔らかい雰囲気が嘘のように厳しい叱責の言葉に千尋は項垂れて、けれど次の瞬間には上目遣いで忍人を見つめた。
 甘えた色を乗せた千尋の空色の瞳に忍人はひとつ、吐息を落とす。徐々に忍人の機嫌を取るのが上手くなっていく千尋だが、だんだん性質が悪くなっているような気がしないでもない。今だってそんな風に見上げられて、忍人が再び叱ることが出来ないということを知ってやっているに違いないのだ。

「・・・・・・帰るか」
「はい」

 千尋を説得することを断念した忍人がぽつりと呟くように云って、さりげなく右手を差し出す。それに千尋は頷いて、躊躇わずに左手を重ねた。お互いに冷え切った手のひらは熱を伝え合うことは無いけれど、ぎゅっと握り締めれば、新しい温もりが生まれてくる。二人で生み出すその小さな熱が愛しい。
 誰も居ない静かな住宅街を二人、肩を並べて歩く。数メートル進んだところでそれまで黙り込んでいた千尋があっと声を上げた。

「大事なこと、忘れてました」
「何だ?」

 忍人が千尋の顔を覗き込んで問うのに、千尋はにこっと明るい笑みを浮かべると頭半分大きな忍人の耳元に爪先立ちで背伸びして、唇を寄せた。驚いたように目を見開く忍人の首に腕を回して抱きつき、吐息がかかるくらい近い距離で囁く。ありったけの想いを込めて。

「誕生日、おめでとうございます。忍人さんと出会えて、私、幸せです」

 ありがちな繰り返された科白だけど、だからこそ。他にどんな言葉を尽くしたって伝わらない感情が届くはず。そう千尋は思っている。
 貴方が生まれてきてくれて嬉しい。21年前のこの日、貴方がこの世に生を受けたから、今こうして貴方と出会って、貴方を好きになって、貴方の温もりを感じていられるのだから。大袈裟かも知れないけれど、純粋にそう思う。そんな風に考えられることもきっと貴方がここに生きていてくれるから。

「ありがとう」

 視界に入る耳朶が真っ赤に染まっていくのを千尋は間近で見つめる。踵を地面に下ろして、忍人の顔を見れば、予想通り。頬に朱色を立ち昇らせて狼狽えた顔。不意打ちの攻撃に恥ずかしそうに視線を逸らして、それでも薄い唇から落ちる優しい擦れた声に千尋は心の中で密かに可愛い、と呟いた。
 四つも年上の男の人に使う言葉では無いと解っているけれど、やっぱり可愛いものは可愛い。普段のストイックな忍人からは想像出来ない千尋だけが知っている姿。
 解いた手を今度は千尋から繋いで、帰り道を促す。歩き出す二人の歩調は一緒。小さな千尋の歩幅に合わせてくれる忍人のさりげない優しさ。

「明日、誕生日プレゼント、買いに行きましょうね。忍人さん、何が欲しいですか?」
「君がくれるものなら何でもいい」
「またそういうこと云って。じゃあ、マフラー買ってあげます。私のとお揃いの! 色違いで」
「それは・・・・・・」
「不満ですか?」
「いや、また柊に揶揄われると思ってな」
「そんなの気にしなければいいんですよ! それに私、一個はお揃いのものが欲しかったんです。ペアリングとか女の子の夢じゃないですか」

 他愛ない会話を弾ませながら、明日の予定を立てる。何でもいい、ひとつお揃いのものを持ちたかったから丁度良い。本当は編んであげたいけれど、料理はともかく裁縫の類がどうにも苦手な千尋では何時出来るか解らない。そんなことを考えながら、夜空を見上げるとそこにはちらほらと白い結晶。

「あ、雪! 雪ですよ、忍人さん!」
「本当だ。今晩は冷えると聞いていたが、降るとは思わなかった」
「明日、積もると良いですね」
「そうだな」

 一面の星空から降り注ぐ小さな欠片に足を止め、はしゃいだ声を上げる千尋に忍人は空を見上げながら、真顔で答える。けれど、千尋がにこりと微笑んで、期待に満ちた目をすれば、忍人もまた表情を柔らかく緩めて、千尋を見た。
 そうして舞い降りる粉雪のような感情をひとつまた積み重ねて。二人は暗い夜道を寄り添って歩いていくのだった。










 大学生忍人×高校生千尋で忍人さんの誕生日。恋愛に初心な二人が書いてて凄い楽しかった。その所為か長さが凄いことに・・・・・・。二人ともお互いに初恋で初めての恋人だから色々戸惑ってるといいと思います。で、ゆっくり二人で確かめながら進んでいけばいいんじゃないかな。この二人だとキスとか夢のまた夢のような気がする(笑)