「風早、忍人さん、何処にいるか知らない? 堅庭にいるかと思ったのにいなくって・・・・・・。今日は訓練ももう終わってたよね?」

 天鳥船に縦横無尽に張り巡らされた回廊の中のひとつを歩いていた風早はすぐそこの角を曲がって歩いてきた千尋に話しかけられ、小首を傾げた。

「どうかしたんですか?」
「ううん、特に何かある訳じゃないの。ただ忍人さんから借りた竹簡を読んでたら、解らないところがあったから教えて貰おうと思って」

 疑問に思ったことをそのまま口にすると、千尋は腕に抱えた竹簡を掲げて見せた。そこで成る程、と千尋が忍人を探す理由に思い至る。
 どうやら皆の知らぬ内に何時の間にか兵法の講義をするという方法で交流を持っていたらしい二人のことを最初に聞いた時、風早は珍しいこともあるものだと感じた。
 忍人がまだ幼い頃から風早は彼のことを見ているが、人に何かを教えるということを好む人間では無かったように思う。自身の頭の回転が速く理解力がある分、他人がどうして解らないのか、そこが理解出来ない。岩長姫の元で年下の弟子を相手にしていた忍人は風早にはそんな風に見えた。
 だからこちらの言葉にも未だ慣れておらず、しかも兵法なんて完璧初心者の千尋相手に忍人が教えているという事実は少なからず風早を驚かせた。風早が見る限り、千尋と忍人の仲は決して良いようには見えなかったから余計に。けれど、これも良い機会なのかも知れないと思い、風早は何も云わずにいる。
 どういう心境の変化なのかは知らないけれど、触れ合う時間が増えることで、千尋の良さを忍人が知ってくれれば良いと願っているから。
 千尋のひたむきで素直な部分、どんなことにも前向きで諦めない強い心、確かに無鉄砲なところもあるけれど、それだって全部他人のことを思ってのことだということ。異世界で育った二ノ姫は未だ王族としての心構えだとか将としての覚悟だとか、そういうものはまだ勉強途中ではある。でもそれだって、千尋は頑張っていると風早は思う。
 こうして難しい兵法書を一生懸命読んでいるところだってそうだ。何事にも挫けずに現状に立ち向かっていこうとする、そういう千尋を従者として育ての親として風早は誇りに感じている。

「そうですか。忍人なら、自分の部屋にいると思いますよ。入るところを見ましたから」
「そう・・・・・・。なら、後にしようかな」

 顎に手を当てて、つい先程見た光景を思い返しながら、風早が答えると千尋は小さく頷いて、手元の竹簡に視線を落とした。うろうろと視線を彷徨わせる。

「どうしてです?」
「だって、部屋まで押しかけたら迷惑でしょ?」
「別にそんなことは無いと思いますけど。俺や柊はよく押しかけてますし。足往も」
「でも、忍人さん、プライベートはきっちりしてそうだし・・・・・・。私じゃまだ、駄目だと思う」

 千尋の様子に怪訝そうに眉を顰めて、問いかける風早。千尋は顔を俯かせたまま、ぼそぼそと理由を述べた。思い悩みながら話す千尋の姿は風早が今まで知るものとは若干違う。忍人に叱られるのが怖くてそう云っているのかと一瞬思ったが、そうならば千尋はもっと怯えた顔をしているはずだ。
 自信なさげに忍人のことを窺う様子からはもっと別のものが思い出された。そう、まるで好きな相手に嫌われまいと悩む少女のような。
 風早は無意識に溜息を吐いた。仲良くなってくれればいいと願ってはいたが、まさか。あの朴念仁で女性になどまるで興味無さげな忍人を千尋が? 思い返してみれば最近、忍人の千尋への態度も軟化しているような気がしてきた。どうやら風早の与り知らぬところで二人は着々と仲を深めていたらしい。
 何だか娘を手放す父親のような複雑な気持ちで胸が一杯になる。同時に小さい頃から成長を見守ってきた二人の別の意味での成長に口許が綻んだ。

「そんなことないですよ。大丈夫です」

 何だか急に忍人の反応を気にして、そわそわしている千尋が微笑ましく思えて、風早は笑った。ああ、千尋もそんな歳になったんだなあ、とずっと見てきただけに感慨も一入だ。
 それに気付いてしまえば、忍人のほうにも兆候が見えない訳では無い。目に見えて優しい態度を取ることはあの弟弟子に限ってないだろうけれど、こんな風に講義が続いているというだけで十分、脈があるのでは無いだろうか。面倒なことを嫌い、人に教授することが苦手な忍人が風早や柊に押し付けずにわざわざ自分で見るくらいには、忍人は千尋を思っているようだから。

「本当に?」
「俺が千尋に嘘を吐いたことがありますか?」
「・・・・・・ない」

 風早の言葉に不安げに小首を傾げて問う千尋に風早は千尋の空のような海のような澄んだ青色を覗き込んだ。千尋は僅かに逡巡して、小さく首を左右に振った。それでもまだ決心がつかないらしく、根が張ったようにそこから動かない千尋の肩を軽く掴んで、忍人の部屋がある方向へと向ける。

「ね? ほら、行ってらっしゃい」
「・・・・・・うん。行ってくる!」

 ぽんっと後押しするように背中を叩くと千尋はようやく覚悟を決めたのか、きゅっと唇を引き結んで、前を見た。青い瞳が光を灯す。それが余りにも綺麗で、そんな眼差しを向けられるであろう忍人が少し羨ましくなった。

「風早、ありがとう!」

 歩き出した千尋が俄かに振り向いて、微笑んだ。その全幅の信頼を寄せた柔らかい面差しが風早は愛惜しいと思う。大切にしたいと、慈しみ、守りたいと思う。
 背を向けた千尋の肩口で金色の髪が揺れる。ちらりと垣間見えた横顔は想い人へ会いに行く喜びに溢れていて、今まで風早が見たことが無いくらいに輝いていた。
 何よりも千尋の幸せを願う風早としては、二人の行く末を願って止まない。そのまま走り去っていく千尋の後姿を、風早は微かな寂寞と不安、そして満ち足りた気持ちで見つめた。







   G rowth







「風早っ」

 背後から千尋の声が聞こえて、風早は振り向いた。千尋は前を歩く風早に駆け寄って、横に並ぶ。満面の笑みを浮かべて、見上げてきた千尋に風早は先程の経過を訊ねた。

「おや千尋。忍人のところへは行ってきたのですか?」
「うん! ほら、また新しい課題を出されちゃった」

 腕の中の竹簡を見せて、千尋は笑う。どうやら上手くいったらしい。手に持った竹簡の数は決して少なくは無いのに、それさえも千尋には嬉しいことのようだ。
 一体、弟弟子は何をやったのだろう。千尋がこんなに喜ぶなんて。さっき会った時の様子が嘘のように楽しそうに、それこそ鼻歌でも歌いそうな雰囲気の千尋に好奇心を掻き立てられて、風早は何時もの和やかな笑みを乗せて問いかける。

「何かあったのですか?」
「あのね、風早、忍人さんにね、」

 ぎゅっと竹簡を抱き締めるようにして、千尋はゆっくりと幾つも言葉を連ねた。その頬が柔らかな朱色に染まっていくのに、風早の親心が刺激され、ふと心配になる。
 女性になどまるで興味が無いと云いたげな忍人相手だから、風早自身、まったく警戒心など抱いていなかった。だから何の躊躇いも無く、千尋の背中を押したのだ。
 けれど、考えてみれば、昼間とはいえ男の部屋を女の子一人で訪ねさせるのは不味かったような気がしないでもない。そもそも自分と那岐という男に囲まれて育った千尋は極端に警戒心の薄いところがある。少し育て方を間違えたかなあ、と風早は己の教育方針を見直した。

「・・・・・・褒められちゃったの」
「え?」

 そんなことを思いながら、千尋の言葉の続きを待っていると、千尋は風早の目を真っ直ぐに見て、ふわっと花のように笑った。恋する少女の鮮やかなそれに風早は思わず見蕩れて、同時に紡がれる弾んだ声に我に帰った。どうやら下世話な推測をしてしまったようだった。
 恋愛に対して免疫の無さそうな二人がそう簡単に進むはずが無いのは、少し考えれば解ることなのに、親心で目が曇っていたらしい。そもそもあの朴念仁にまともに女性が扱えるはずもない。うんうん、と一人納得して頷く風早に千尋は小首を傾げる。

「どうかしたの?」
「いいえ、何でもありませんよ。それで、忍人は何て?」
「私のこと、成長した、立派になったって!」

 くるくると変わる表情を惜しげもなく見せ付けて、千尋ははしゃいだ声で風早に報告する。余程、忍人に努力を認められたことが嬉しかったのだろう。その姿を見ていると、風早も何だか心が温かくなって、口許が緩む。微かに揺れる千尋の金色の髪に手を伸ばして撫ぜながら、

「良かったですね」

 と云うと、千尋は明るく笑って、

「うん! これからももっと頑張らなくちゃ!」

 と宣言した。決意したように、てのひらを握り締める千尋に風早はふっと笑う。
 千尋の真っ直ぐで優しくて、何があっても前向きに進んでいこうとする強さ。少しずつでも努力を重ねて、成長していこうという心。そんな千尋の良いところを忍人も認めてくれたのなら、風早にとっても酷く喜ばしいことだ。
 誰よりも大切に思う彼女が少しでも多くの人に理解され、愛される。それは少しの寂寥感を風早の胸へ残していくけれど、千尋のことを思えば、それは些細な感傷に過ぎない。
 だから風早は唇に何時もの穏やかな笑みを浮かべて、千尋の背中を押すように優しく髪を梳いた。

「ええ、頑張ってください」










 風早視点で書くと千尋をべた褒めしたくなるのは何でだろう。ちなみに千尋視点の忍人さんの教え方と風早視点の忍人さんの教え方では全然違うのは、忍人さんが千尋にだけ甘いから。他の人間にはもっと容赦ないと思う。