それはきっとささやかで他愛なくて有り触れたもの。だからこそ、大切で愛しくて仕方が無いもの。







    あわせのかたち







「ちひろ、」

 朝のこの時間が、私はもしかしたら一番好きかも知れない。
 耳元へ降ってくる柔らかくて、少し擦れた忍人さんの声。甘くて、優しい。頬を手で撫でながら、忍人さんは何度も私の名前を呼ぶ。まどろみの中で聞こえる声。それが心地好くて、もっと聞いていたくて、私は起きていても少しだけ、寝ているふりをする。そうしたら忍人さんは困ったように起きろと云って、私の髪を梳いてくれる。その困惑した声音も好き。だって、忍人さんをこんな些細なことで困らせられるのはきっと、私だけだから。
 同じ寝台を使うようになって、もうすぐ三ヶ月。こんな風に忍人さんの温もりを感じて、目覚めるようになって、もう三月も経つ。もう日常と化していても良いはずなのに、私は未だこの幸福感に慣れない。だって、幸せすぎる。大好きな人が夜寝る時も朝起きる時もずっと一番近くにいるなんて。
 夕食は執務のスケジュール次第で一緒に取れないこともあるけれど、朝ご飯は何時も一緒。同じものを向かい合って食べる。今ではもう食べ物の好き嫌いはお互いに筒抜けだ。
 夜、何もない時でも忍人さんは私を抱き締めて眠ってくれる。僅かな隙間も無い抱擁が私は好きだ。忍人さんの腕に包まれて、胸元へ顔を擦り寄せて目を閉じる瞬間、私はその日がとても素敵な一日だったと思える。寒い日も二人で身を寄せて温もりを分け合って眠る。
 朝は、何時も私を優しく起こしてくれる。私の好きな寝起きの擦れた声で、私のことを夢の世界から連れ出してくれる。そして、二人で新しい一日の始まりを一緒に迎えるのだ。
 何気ない日常の繰り返しでも、二人の時間が積み重なってゆくことが幸せだと私は思う。同じ時間を二人一緒に過ごすことはきっと何よりも大切なことに違いないから。

「千尋」

 何度名前を呼んでも起きない私に忍人さんが痺れを切らしたように、私の頬から手を離した。でもこれも何時ものことで、この後、最終手段に出る忍人さんの行動も私にはお見通しだ。それを待ち望んで、寝ているふりをしているのだと云ったら、忍人さんは怒るだろうか、それとも呆れるだろうか。どちらにしても、もうしてくれなくなるに違いないから、私は黙っているのだけれど。
 瞼を差す眩い光が遮られて、一旦私から離れた忍人さんが私を覗き込むのが解る。頬を両の手で包み込んで、額と額を合わせて。吐息を肌に感じるくらい近い距離。

「千尋、」

 好きな人が口にした私の名前は何時もと違う響きに聞こえて、何だか特別みたいで。同じ名前の人に会ったことだってあるのに、世界にひとつだけみたいで。胸があったかくなって、ぽっと幸せが灯る。
 そんなささやかで他愛なくて有り触れた行為が、こんなに大切で愛しくて仕方が無いなんて、私は何処までこの人を好きになればいいんだろう。頭のてっぺんから爪先まで埋め尽くすくらいに、好きの気持ちでいっぱいになる。胸に灯った幸せは私を満たして、それは何時まで経っても慣れない感覚で。
 もう三ヶ月も一日だって欠かしたことのない日常なのに、現実感が乏しくて、私は怖くなる。幸せすぎて、怖い。忍人さんを失ったら、私はどうなってしまうんだろう。忍人さんはずっと一緒にいるって不安になる度に云ってくれるけれど、私はたまに怖くて堪らなくなる。喪失が余りにも近くて、隣り合わせのような気がして。
 でもそんな得体の知れない不安も忍人さんは吹き飛ばしてくれる。唇に、柔らかい感触。触れるだけのそれは御伽噺で女の子を目覚めさせる一番の魔法。

「ちひろ」

 瞼をゆっくりと押し上げると、視界に映るのは大好きな忍人さんの顔。長い睫毛、海みたいな色の綺麗な瞳、すっと通った鼻梁、薄くて形のいい唇。それら全てが形作るのは、何時もの厳しい顔でも無表情でもない、優しい微笑み。私が一番好きな表情。
 柔らかい声が私の名前を紡ぐのに、私は何だか無性に切なくなって、嬉しくなって、心がぐるぐるして、最後に穏やかな気持ちになった。大好きな人が手を伸ばせば届く場所に居て、私にとびきりの笑顔を向けてくれる。
 たったそれだけで私はどこまでも果てが無いくらい幸せ。こうして朝、真っ先に映るのが大好きなあなたの笑顔である限り、ずっと。

「おはようございます、忍人さん」
「ああ、おはよう。千尋」

 藍色の瞳を真っ直ぐに見返して、朝の挨拶。今日もまた何の変哲も無い一日が始まる。ささやかで他愛なくて有り触れた、でもだからこそ大切で愛しくて仕方が無い、新しい一日が。










 何か幸せな新婚忍千が書きたかったらしい。忍千は本当に幸せになるべきだと思うんだ。本気で。