I want to know you.







「忍人さん、入ってもいいですか?」
「ああ」

 幾つかの竹簡を抱えて、千尋は忍人の部屋を訪れた。生成り色の布で仕切られた部屋の前で中にいるであろう忍人に声をかけると、素っ気無い答えが返ってくる。
 千尋は少しどきどきしながら、布を押し退けて、中へと入った。忍人の部屋へ入るのは初めてだ。普段、彼は堅庭にいる。いない時は軍の訓練に出ていることが多く、わざわざ部屋を訪ねることなど今まで一緒に何ヶ月も過ごしているが、一度も無かった。それに忍人は簡単に自分の内側を他人に見せる人では無いから、千尋は部屋に入れて貰えるとも思っていなかった。
 風早に云われて、部屋を訪ねてみて本当に良かった。でも、こんな風にあっさり許されてしまうと、少しは仲良くなれたのかな、認めて貰えたのかな、と思えて仕方が無い。最近はこうして、今までは絶対に踏み入らせてはくれなかった部分を少しずつだけれど、見せてくれているような気がする。
 それを考えると千尋は何だか胸がざわめいて、嬉しくて堪らなくなる。もっと知りたい。彼の色んなところをたくさん見て、聞いて、触れたい。やっぱり知れば知るほど、好きになっちゃうんだろうな、なんてそんな甘い予感もして、千尋は軽く腕の中の竹簡を抱き締めた。

「どうした、何か用があったんじゃないのか?」
「あ、そうです、こないだ借りた竹簡を返そうと思って。後、少し教えて貰いたいところがあるんです」

 部屋の入り口で立ち止まってしまった千尋に奥の寝台に腰掛けて竹簡を読んでいた忍人は不審気に眉を寄せた。その声に千尋は我に帰り、慌てて用件を告げる。
 そうだ、この前借りた兵法書を返しに来たのだ。忍人と千尋の兵法の授業、もとい竹簡の貸し借りの回数は思い返してみればもう片手の指では足りないくらいの数に達している。初めは出雲に着いた頃だったから三ヶ月になるだろうか。思ったよりも長く続いているな、と千尋は自分でも不思議に思った。あの頃はまだ彼のことを怖い人だと感じていたし、貸してくれた竹簡だって難しくて訳が解らなかったから、最初の方で投げ出してもおかしくはなかったのに。
 そもそも中つ国の言葉は万葉仮名に似ていて、千尋にとっては読み難いことこの上ない。古文は特別苦手では無かったはずだが、いまいち文脈が掴めないこともあるし、漢字が読めずに首を捻ることも多い。だから竹簡ひとつ読むのもかなりの重労働で頭を使う。内容を把握しようと思えばいわずもがな。それが兵法という専門分野なら尚更だ。
 それなのにどうしてこんな小難しい授業が続いているのかと云えば、勉強しなければいけないという義務感と学ぶことが楽しいという探究心と、何よりこの時間があるからなのだろう。大分数をこなして、文法や漢字、表現方法に慣れてきた今でも多くの疑問符を浮かべてしまう千尋に忍人は決して優しくは無いが、的確に教えてくれる。
 初めは叱られるかと思ったが、さすがに忍人も千尋が初心者だということを解っているのか、呆れて溜息は吐くものの怒鳴りはしないし、ちゃんと千尋が納得するまで付き合ってくれる。だから何時も千尋はしばらく悩んで、理解し切れないところはこうして忍人に訊ねに来るのだ。
 ―――――― 場所は何時も堅庭か千尋の部屋であって、忍人の部屋を訪れたのは今日が初めてだけれど。

「そろそろ来る頃だと思っていた。この間渡したものは前よりも少し難易度を上げたからな」

 手招きをして寝台へ座るよう促す忍人に従って、千尋は奥の窓辺に近い場所に置かれた寝台へと腰を下ろした。見渡す限り、何の変哲も無い簡素な部屋だ。
 寝台がひとつ、机と椅子がひとつずつ、他には寝台の傍に着替えや小物を入れているらしい草で編まれた大きな籠がひとつ。それ以外に家具も無ければ、物ひとつ無い。生活感の無い無機質な忍人らしい部屋。唯一、窓の向こうに生えた木々が緑で彩りを添えている。

「え、と・・・・・・、とりあえずここです。他にも一杯あるんですけど」
「ここはだな・・・・・・」

 寝台の敷布の上に腕に抱えた竹簡の中から問題の竹簡を広げ、中盤のある一節を指差す。文章自体は読めたのだが、内容がさっぱり意味不明だった箇所だ。
 左右から竹簡を覗き込んで、忍人の講義を聴く。端的に要点だけを掻い摘んで説明してくれる忍人は実は結構教えるのが上手いのではないかと思う。説明を最後まで聞いて、更に疑問に感じたことを問いかけていく。概略が把握できたと思えたら、次の竹簡へと移る。そうしている内に最後の竹簡になった。
 軽快な音を立てて、竹簡を開いていく。漂う墨の匂いが千尋は嫌いではない。片側から竹簡を見、問題の場所を探し、忍人へ伝える。

「そこか」

 反対側から同じ場所を覗き込む忍人。秋風が吹き込んで、ふわりと忍人の黒髪が揺れた。額を突き合わせるくらい近い距離に忍人の顔があることに気付いて、思わず息を呑む。
 忍人はただ竹簡の文章を読むのに神経を注いでいる。その真剣な表情が目の前にあった。どくん、と高鳴る鼓動を抑えることが出来ない。早鐘を打ち始めた心臓に千尋は狼狽した。
 忍人はこんなに自分の為に一生懸命になってくれているのに。集中しなきゃ集中しなきゃ、と心の中で唱えるものの、そう簡単には落ち着いてはくれない。
 講義に集中していた先程までは何でも無かったことが、意識してしまうと何もかも刺激になる。手を伸ばしたら届く場所にある、さらりとした指通りの良さそうな黒髪、綺麗に揃った長い睫毛、日に焼けているはずなのに白い肌。自室で寛いでいたからなのだろう普段の藍色の上着は着ておらず、下の黒い衣だけを纏ったその姿は何時もとは違って見えて、ちらりと視界に入る度、滾る心に油を注ぐ結果となる。
 収まるどころかますます跳ね上がっていく心音に千尋が慌てている内にも忍人は該当箇所を読み終えたらしい。低い擦れた声がすぐ傍で聞こえて、余計に心臓がうるさくなった。

「千尋、始めるぞ?」
「・・・・・・・・・・・・はい」

 不意打ちで名前を呼ばれて、千尋の胸がまたひとつ大きく音を立てる。視界にちらりと竹簡が入って、我に帰った。
 これではいけない。ちゃんと聞かなければ、忍人に失望されてしまう。これは姫として将として立派になる為の階段のひとつなのだ。浮ついた心では上れない。彼の王である為の、彼の望む王たる為の大事な一段。そして大切な人々をこの世界を守る為の大きな一段なのだ。
 深呼吸を繰り返して、心を落ち着ける。忍人を見たらまた反応してしまいそうだったから、竹簡の文字を追うことだけに集中する。難しい漢字を見ていると少し胸の音が静かになった。
 たっぷり間を置いて、投げかけられた問いに頷くと忍人は説明を始めた。それを千尋は集中して聞いていた。一度熱中してしまえば、吸い込まれるように頭に入っていく。
 真剣な面差しで二人は同じ書簡を見つめる。どれくらい時間が経ったのか、今までよりもかなりの時を費やしたそれは何とか終わりを告げた。

「解ったか?」
「ここまでは、大体」
「では、今日はこれまでだな」

 忍人が小首を傾げて問うのに、千尋は疲れ切った表情で頷いた。ぎゅうぎゅうに詰め込んだ知識に頭が重たい。それまで集中していたのが一気に気が抜けて、溜息が漏れる。
 竹簡を畳みながら、忍人は微かに笑って、疲労に渇いた目を何度も瞬きさせる千尋を藍の瞳を眇めて眺めた。その眼差しは差し込む陽射しのように優しい。

「成長したな」
「忍人さん?」
「君は随分、立派になった」

 優しい声音に顔を上げて、忍人を見る。そこにある顔に冷笑や嘲笑ではない、忍人の柔らかな微笑みを認めて、千尋は俄かに胸が熱くなった。
 忍人が認めてくれた。その喜びで身体中が一杯になる。握り締めた手が震えた。そして、思い出した。初めて忍人に褒められた日のことを。その時の気持ちを。彼にもっと認めて貰いたいと思ったあの日。常に厳しい眼差しで現実を見据えている忍人だからこそ、褒められた時の嬉しさは人一倍だった。だから頑張った、頑張れた。
 溢れ出す感情を抑え切れずに、千尋は一旦顔を俯けて、ゆっくりと呼吸を整えてから、忍人を見た。彼は千尋の様子に訝しげに窺っている。

「忍人さん! 私、嬉しいです!」

 パッと花が咲くように笑う千尋に忍人は微かに瞠目した。無意識に耳朶が赤く染まる。そんなささやかな忍人の変化を千尋は見逃さず、今度は可愛い、と笑い声を上げた。
 誤魔化すように忍人は小さく咳払いをして、畳んだ竹簡を手に立ち上がる。机の上に竹簡を置いて、机の上にある十はあろうかという竹簡の中から三つほど選び出し、千尋に渡した。

「次はこれだな」
「う・・・・・・」

 手渡された竹簡の内、一番上にあったひとつを広げてみて、千尋は眉間に皺を寄せた。ぎっしりと詰め込むように書かれた漢字の数々。しかも何が書いてあるのかさっぱりだ。今までのものはもう少し簡単に噛み砕いて書いてあったのに、いきなり難易度が上がったような気がする。
 見ただけで頭が痛くなってくるそれに言葉を失くして固まる千尋を横目に忍人はその唇に意地の悪そうな揶揄い含みの笑みを浮かべて、千尋の手から竹簡を取り上げた。代わりに手に持っていた別の竹簡を開いて、千尋の手に持たせる。今度は千尋にもある程度読める。最初の文を読むと今日の続きだと解った。

「酷いです、忍人さん! もうっ、笑わないで!」
「先に笑ったのは君だろう。仕返しだ」
「だからってこんな風に揶揄わなくても!」

 忍人の顔を見上げ、千尋は頬を膨らませる。滅多に無い分、底意地の悪さが発揮されるのか、何て性質の悪い冗談だろう。千尋の反応を見て楽しむなんて。
 上目遣いに睨んで、抗議するものの忍人はくすくすと笑うばかりで一向に取り合ってはくれない。千尋は諦めて、溜息をひとつ落とすと、口許を綻ばせた。
 冷静になって考えてみれば、何だか可笑しくて堪らない。忍人が冗談を云うこともそうなら、声を上げて笑うことも珍しい。視界に映る忍人が楽しそうに笑うのを見てしまったら、少しの文句は飲み込まざるを得ないような感覚に陥った。更には忍人が、

「解らないなら、また俺に聞きにくれば良いだろう」

 などと笑って云うものだから、千尋はもう匙を投げるしかない。絆されていると解っていても、こればかりはどうしようもないと思う。
 先に好きになったほうが負けなら、千尋は常に負けっぱなしだ。連戦連敗、勝てた例など無い。けれどそれもまた良いかも知れないと思えて、千尋はまた小さく笑った。










 小説で兵法書の貸し借り云々というところを見て。千尋が恋する乙女すぎるのは仕様です。うちの千尋は忍人さんが好きすぎると思う。