跡に薬







「(忍人、)」

 誰かに呼ばれたような気がして、忍人は振り返った。そこには忍人の服の袖を掴んで、何か訴えるような眼差しをした遠夜がいる。
 不意打ちで遭遇した荒魂との戦闘を終え、離れた場所で他の兵士の手当てをしていたはずの遠夜が気配も無く、すぐ傍にいたことに忍人は目を瞠り、小さく溜息を吐く。土蜘蛛の目は誤魔化せない、か。自嘲気味に唇に笑みを乗せて、遠夜の紫紺色の瞳を覗き込む。

「どうした? 遠夜」
「(忍人、怪我してる。少し見せて)」

 遠夜が何を云っているのか、忍人には聞こえない。ただこの数ヶ月共に過ごしてきて、ある程度は読み取れるようにはなっていた。遠夜も言葉が通じない相手に意思を伝える方法を覚えたらしく、千尋がいない時は身振り手振りや表情表現を大袈裟にすることで皆と会話している。
 だから忍人には遠夜の云いたいことがすぐに理解出来た。このやりとり自体、何度繰り返したか解らないくらい、頻繁に起こっているものだから、簡単に予測がついてしまう。

「掠り傷だ。手当ては要らない」
「(小さな傷だからって油断しちゃ、駄目)」

 素っ気無く答え、遠夜の手を振り解いて進もうとする。早く部隊に指示を出さなければいけない。怪我した者の把握し、これからの行軍隊形を考えなければ。
 だが、そんな冷やかな忍人の態度にも屈せず、遠夜は忍人の服の袖を離さなかった。ぎゅっと握り締め、一生懸命に目で訴えてくる。その必死の表情に忍人は嘆息する。
 何時ものことだった。遠夜はどんなに忍人が冷たくしても、いっそ侮蔑の目で見たとしても、絶対に忍人のことを放っておかない。どうしてそんなに自分にこだわるのか、忍人には理解不能だった。自分なら、何の躊躇いも無く捨て置くだろう。そうまでされて助ける義理など無い。

「もういい。解った」

 それなのに、遠夜の紫紺色の瞳にじっと見つめられると、観念せざるを得ないような気になってくるのが不思議だ。諦めたように目を逸らし、遠夜の手を外して、袖を捲る。
 濃紺の上着と黒い下衣を二の腕の辺りまで押し上げれば、白い肌に赤く血が滲む大きな噛み跡が残っている。咄嗟に身をかわせずに腕で防いだところを荒魂に噛まれたものだ。牙に毒が含まれていた訳では無さそうだし、そう痛みも感じないから、放置しても構わないと判断していた。
 遠夜は検分するように晒された傷跡に指を這わせると、腰に下げた袋から竹筒と布切れを出して、竹筒の中身を布に垂らし、濡らした。消毒液らしい。

「・・・・・・っ」
「(大丈夫。そんなに深くない)」

 ひんやりとした布が僅かに熱を持った傷に触れるのに、忍人が眉を顰める。消毒液が傷に沁みていく。熱が冷まされるのと同時、麻痺していた感覚が戻ってきたのか、じくじくと鈍い痛みを感じた。
 遠夜は傷口周りの血を拭い去ると、安心させるように忍人に微笑みかける。そして、止血用の薬草を取り出すと、傷口に押し当てて、細長い布切れをゆっくりと巻いていく。
 その丁寧な所作を所在無げに眺めながら、忍人はぽつりと長い間、疑問に思っていたことを問いかけた。遠夜が小首を傾げて、こちらを見る。

「どうしてだ?」
「(何?)」
「どうして、君は俺に構うんだ?」

 こんな傷、わざわざ世話をするほどのものでもない。そうでなくても、遠夜は忍人に付き纏うことが多かった。邪険にされているというのに、どうして自分を構うのか。忍人はずっと疑問に思っていた。何時も千尋の傍にいるのかと思えば、ふとした瞬間、遠夜は忍人の近くで微笑んでいるのだ。

「(仲間は大切。忍人は、仲間、だ。仲良くなりたい)」

 柔らかく紫水晶のような瞳を眇めて笑う遠夜に一瞬、忍人は見蕩れた。純粋で幼い遠夜の笑みは何も知らないまっさらさで真っ直ぐに忍人の胸を打つ。
 はっきりと唇を動かして、遠夜は云った。僅かに読唇術を会得している忍人はそれを拙いながらも読み取ることが出来た。遠夜の飾らない言葉、無垢な感情のひとかけらを。
 成る程、土蜘蛛として忌み嫌われることに慣れた遠夜にとって、今こうして過ごす皆は初めて出来た「仲間」なのだろう。それは忍人としては到底納得できるような答えでは無かったけれど、忍人の腕に触れる遠夜の細い指先が余りにも優しく、慈しみに満ちていたものだから。
 思わず、そうかと頷いてしまっていた。忍人の返事に遠夜が嬉しそうに笑う。つられるように唇が緩んだ。
 あんなに敵意を抱いていたのに、何時の間にか無邪気な笑顔に絆されている自分に忍人は心の中で苦笑する。自分にこんな穏やかな感情がまだ残っていたなんて知らなかった。

「(出来た。・・・・・・今度は気をつけて)」
「ああ。今度からは気をつける」

 きゅっと小さく布の端と端を結び、遠夜は満足そうに微笑んで、しかしすぐに心配そうに忍人の顔を覗き込んだ。紫紺色の瞳が揺れるのに、安堵させるように忍人は口を開く。忍人の言葉に遠夜はふっと眼差しを和らげた。遠夜が柔らかく口許を綻ばせるのに、忍人は唇を微かに持ち上げて笑う。
 まだ決して全てを許せはしない、胸の奥に秘められた蟠りが溶けて消え去った訳でもない。全面的に信頼出来るかと云われれば、恐らく否と答えるだろう。
 それでも、少し目の前で笑う遠夜を好きになれるかも知れないと忍人は思った。土蜘蛛では無く遠夜として。仲間として、認められるかも知れないと。










 熊野の磐座でのイベントでお前ら何時の間に!?と驚いたけど、後で見てみれば五章でもアシュヴィンに話しかける遠夜にやっぱり裏切るのか的発言(うろ覚え)をしてたので、それまでに二人が仲良くなるイベントがあればいいな、と。将軍は遠夜の可愛さとか真っ直ぐさにだんだん絆されていけばいいよ。遠夜可愛いよ遠夜。